(にせもの)というのは、一見、本物のように見えるが、よく見ると、違うというものや、本当ににせものというもので、性格分析には、(にせもの)という現象が、多く見られます。と言うよりかは、(にせもの)の方が、多いかもしれません。

 

 この分析が必要になるのは、たとえばA(きびしい親)を見ると、「なるほどと思えるきびしさもあれば、どうもあげ足を取っているだけのようなきびしさ、自分のうっぷんを晴らしているだけのようなきびしさ」もあります。
 

 B(優しい親)についても、「本当に相手のことを考えてしている優しさもあれば、自分の損得でしているような優しさ、押しつけ、おせっかいのような優しさ」もあります。
 

 それから合理的といっても、たとえば泥棒さんは非合理的かと考えると、ある面では大変合理的です。夜中に人の居ない所へ入る、巧みに錠を開ける、そういう面では合理的だが、捕まったら元もこもないという面からは、全然合理的ではありません。
 

 このように、A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)にはなるほど、(ほんもの)と思えるものもあれば、(にせもの)も混じっています。このにせものを見抜いていくことにより、より本当の自分を知ろうというのが、(にせもの)分析なのです。
 

 性格分析のA(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)、D(自由気ままな子供)、E(人の評価を気にする子供)は、生きている充実感があるときには、(ほんもの)ですが、充実感がなくなると(にせもの)になります。
 

 本来のA(きびしい親)の特徴は、『社会のルールを守る。無いときは、ルールを創る』という機能です。社会だけではなく、『自然のルールも守る。教える』という機能もあります。
 

 人間は、集団生活でしか生きていけない動物です。動物という面では、人間は最も弱い存在です。外敵から身を守り、衣食住を確保するためには集団生活が必要です。つまり、社会ということですが、この社会の基本は、「一人一人が自由であり平等でありたい」ということでしょう。
 

 そのためには、ルールが必要です。自分だけは自由でありたい、というのでは本当の社会は成り立ちません。また、社会のルールを教えてあげないと子供や部下は、社会のなかで衝突や葛藤を引き起こし適応できなくなります。
 

 さらに、「池に落ちれば溺れる。火に手を突っ込めば火傷をする」といったことから、健康に関する知識まで、自然のルールも必要です。
 

 一方、生きている充実感が無くなると、A(きびしい親)は攻撃的になります。自分のしたいことを妨げるものを倒そうとする。からかう。脅す。あるいは、自分を守るために攻撃する。揚げ足を取る。警戒する。そういう面がでてきます。
 

 B(優しい親)の本来の特徴は、『見返りを期待しない優しさ』です。ルールだけでは、社会はうまくいきません。思いやりや譲り合う心が必要です。
 

 代償を期待しない優しさ、そんな物が世の中にあるかと言われますと、ほとんど無いのですが、やはり本当の特徴は? と考えますと見返りを期待しない優しさといういうことでしょう。「自由・平等と思いやり」、それらがそろって初めて、本当の社会が成立します。
 

 一方、充実感が失われると、B(優しい親)は自分の利益を得るための親切や、自分を守るための親切になります。押しつけの親切やお節介になるということです。
 

 A(合理的な部分)の本当の特徴は、『ハッと我に返る。原点に戻る』機能です。
 

 感情や理屈にとらわれているところから、ハッと我に返る。なにが原点を顧みる機能と言ってもいいですね。
 

 一方、充実感が失われると、自分を正当化するための自己弁護や自分を無理に納得させる自己説得のための理屈になります。
 

 D(自由気ままな子供)は、『欲求充足本能』です。食べたい、遊びたい、眠りたい、言いたいことを言い、したいことをしたいという欲望を満たす本能です。
 

 このままでは本能ですが、生きている充実感があるときは、前進性になります。一方、充実感を失うと、「欲しいものが手に入らない、満たされない」という気持ちが強くなり、「不満さん」になります。
 

 E(人の評価を気にする子供)は『自己防衛本能』です。自分を守ろうとする本能です。E(人の評価を気にする子供)をこのように理解すると非常に分かり易くなると思います。人の目や人の評価をなぜ気にするのか、という理由もよく理解ます。
 

 生きている充実感があるときは、自己反省能力、内面の世界、人の不安を思いやれる能力ですが、充実感を失いますと、「自分を守れなくなる、どうしょう」という気持ちが強くなり、「不安さん」になります。
 

 現実の社会の人間関係では、この不安と不満が(にせもの)現象の主役になります。
 

 まず第一に、自分が「不満」さんか、「不安さん」かを決めてください。嫌なことや困難なことが起きたときに、不安を感じる人は「不安さん」です。一方、不満を感じる人は「不満」さんです。さらに不安も不満も両方感じるという人は「不安と不満さん」です。この3つのタイプに分けられます。
 

 これの判別には、むしろ幼稚園や小学校など、小さいときのことを思い出していただくほうがよいでしょう。何十年も生きていますと、なかには、自分を作り替えている人もいます。正反対の性格になっている人もいます。だから、現在の自分がどう感じるかということよりも、幼い日の自分を思い出していただくほうが正確になります。

 

 この不安と不満が、自分の不安と不満を満足させるために、A、B、Cを、使うところから、にせもの現象が発生します。

 

 この(にせもの)を止めることなく、続けていくと、人間関係を壊して、自滅のシナリオへと進行していくことになります。本人は、自覚していないことが多いので、大変問題なのですが、早く、性格分析を学び、(にせもの)を止めなければ、人生を壊してしまうことも起こります。(にせもの)を見抜く能力は、大変重要なのです。

   性格分析のグラフで、A(きびしい親)が不自然に低い方がいます。

  「本当に低いのでしょうか?」とお尋ねすると、「いえ、本当は高いのです」とはっきり答えられる方は、解決しやすいものです。問題なのは、自分でもAが低いと思いこんでいる方です。

  Aの特徴は、緊張です。Aは、人の欠点を見る能力ですから、人が敵に見えます。Aの人にとって、人の中にいるというのは、敵の中にいるということですから、緊張します。対人関係で緊張を感じる人は、性格分析のグラフで、いかにAが低くても、本当はAが高い人です。

  Aが高いと攻撃したり警戒したりしますので、人間関係が悪化します。人間関係が悪化することは、E(自己防衛本能)の高い人にとっては、大変な不安です。それは、つらくて苦しいので、Aを下げて、B(やさしい親)を高めます。

  本当は、Aが高いのに、自己防衛のために Aをさげている、特に長年にわたってそうしてきているために、無意識になっている場合が大問題です。本人は、Aが低く、Bが高いと信じています。これを「内なるA」と呼んでいます。

  Aが高い場合は、人の欠点が見えます。人は、自分の中にあるものしか見えませんので、人も自分の欠点を見ていると感じます。人の視線を感じて苦しみます。

  しかし、人の欠点が見える以上、相手は敵です。敵に対しては警戒します。口に出すかどうかは別として、攻撃もします。長期的な目で見ると、警戒や攻撃だけでは自滅のシナリオになるのですが、短期的にはなんとか自己防衛はできるということになります。

  しかし、Aがありながら、自分はBの人であると信じている場合は、本当に苦しくなります。実際はAがあるのですから、人が自分を批判しているように感じます。不安が押し寄せてきます。批判的な人の視線が、機関銃の弾や矢が飛んでくるような感じがします。人の目が自分を刺すように感じます。

  しかも、それに対して、Bで反応するのですから、自己防衛できません。対応がBですので、相手を善人と見なければなりません。見なければというよりも無意識に善人と見て、善意、好意を持って対応しようとします。無警戒で優しく接しようとします。これでは打たれるばかりで、可哀相すぎます。

  「腹が立つ。無神経な人間だ。さっさと死ねばよいのに!」、実際に殺せば勿論問題ですが、心の中で一度や二度、そのように思ったことがあったとしても決して異常ではないでしょう。一度もそのように思ったことが無いという方のほうが異常でしょう。

  人間は、決して出来の良い存在ではありません。人間の過去の歴史は、殺人の歴史です。人間の最大の敵は人間でした。現在でも世界の各地で戦争をしています。その過去から私たちの性格はメッセージを受け継いで出来ています。

 

  私たちのA、B、C、D、Eは、そのようなもので出来上がっています。特に、日本は、「村八分型集団意識」の国ですから、日本人はAが高いのが普通です。

  だから、Aがないはずはないのですが、無意識にAを抹殺していますから、自己防衛ができません。ただただ攻撃され、抵抗できずに倒れるだけとなります。疲労感が強くなり、無気力となり、身体が動きません。

  原因が分からないので、自分ではどうして良いか分かりません。学校にも、職場にも行けなくなります。本人は原因に気が付きませんから、がんばろう、がんばろうとします。しかし、すればするほど逆効果です。エネルギーを消耗して行くだけになります。

  Bだけの人であれば、人の長所しか見えませんから、人も自分の長所を見てくれているという気持ちがします。人は善人です。当然、だまされ放しになるのですが、本人はだまされたということすら気が付きません。人の中にいるのは楽しいことで、疲れることはありません。

  Aを持つことは疲れることです。しかし、Aも素晴らしい能力です。必要な能力です。まず、「内なるA」に気づきましょう。そして、Aも必要な能力だということを理解して、自分のAを決して責めないでください。

  性格分析でのEの本体は、自己防衛本能ですから、あって当然のものです。ただ、それが強くなると、「不安さん」になり、人の評価ばかり気にするようになります。人の目ばかり気になり、少しのことでも不安になり、生きにくくなります。

では、なぜEが強くなるのでしょうか。それは、幼いときに不安体験をしたからです。大きくなってからの体験は、自分が大きいですから、あまりこたえません。やはり、少しのことでも生命の危険が及ぶ幼児期の体験です。

しかも、それは存在の否定体験です。単に怖いとか、恐ろしいということではなくて、「私は、両親にとって、不必要な存在ではないのか? じゃまな存在ではないのか?」という体験です。

大人にとって大したことではなくても、存在の否定体験などというたいそうな問題ではなくても、ごく常識的な言葉や行動であっても、子供にとっては、自分の存在を否定されていると感じることがあります。

上昇志向の強い家庭は、子供にとっては「存在の否定」です。勉強ができ、社会的に立派とならない限り、親から存在を認めてもらえないからです。「世間体」を大事にする家も、子供にとっては「存在の否定」です。お父さんやお母さんは、自分よりも「世間体」を取るからです。

男の子がほしかった。女の子の方が良かったということも、そうです。性別は完全な存在の否定です。仕事優先の親もそうです。私と遊ぶよりも仕事を取るのですから。病弱な姉を大事にする親も、そうです。私よりもお姉さんが大事なのですから。

物は何でも与えてくれるが、叱ることのない親も、そうです。叱ることすらないほど、存在を無視されているのですから。自由な家庭というのは、存在感の希薄な家庭ということでもあります。

大きくなれば、愛情がないのではなく、いろいろな事情があってそうだったのだと分かります。しかし、大きくなって理解できたとしても、それは意味がありません。幼いときには、幼いときに感じたことがすべてです。その時に感じた不安が、根底に根付き、その後の人生の出来事の度に大きく育ってきたのですから。

さらに、時代の変化から来る問題があります。貧しい時代では、食べることで精一杯でした。餓死する危険がいつもありました。親は精一杯がんばって、子供に食べ物を与えました。それが、親の愛情表現でした。子供も空腹ですので、ご飯を与えてくれる親は、愛情あふれる親と感じられました。

貧しい時代では、お父さんが仕事で家にいなくても、ご飯を食べさせてくれるためにがんばって働いてくれているということが分かります。お母さんが、世間体ばかり気にしても、自分や家族を守るために気苦労してくれているということが理解できます。

貧しい時代は、親の愛が確認しやすい時代です。ご飯を食べさせてくれる、それで親の愛を確認できました。しかし、豊かな時代になれば、ご飯は当たり前です。物によっては、愛の確認はできません。外で仕事ばかりしている親は、自分よりも仕事が大事だと映ります。世間体ばかり気にしている親も、自分よりも世間体のほうが大事だと感じます。

しかも、現在の日本の親は、貧しい時代に生きた親です。もっと若い世代でも、物を与えるのが愛情表現だった親に育てられていますので、愛情表現は物です。しかし、子供は物には飽きています。物では、愛情表現とは感じられません。ここに、愛情欠乏症が起こります。急速に高度成長をし、「物の時代」から一挙に、「心の時代」に到達した日本の特殊事情です。

もう一つの存在の否定体験は、死です。私たちの死生観は、「死んだら灰になっておしまい」ですから、死は、完全な存在の否定です。幼いころに、病弱だったとか、家族の人や親しい人が死んだという体験は、強い存在の否定体験になります。親の愛の確認ができないということと、死の不安が、存在の否定体験を形成するのです。

ただ、「存在の否定体験=環境+自我の強さ」です。自我が非常に強い方は、親の愛の確認ができないことや死の不安という環境による存在の否定体験が弱いものであっても、自我が強ければ、強く存在の否定体験と感じます。

存在の否定体験を考える場合は、常に、環境と自我の強さという両面から見ていかなくてはなりません。環境の面では、存在の否定体験に当たるものはたいして強くなさそうなのに、Eが非常に高い方は、自我の強さという面から見ていくと、より正確に理解できるでしょう。

 性格分析で、E(自己防衛本能、不安)が高い場合、簡単に原因が明らかになる人と、なかなかはっきりとしない人がいます。

 

 原因が分からない場合は、前に進むことはできません。Eが高い以上、時間をかけて、その原因を探る必要があります。

 

 豊かで安全な日本に住む私たちが、実際に餓死するとか、命を狙われるということはありませんので、動物としての自己防衛本能が強く動くことはまずありません。

 

 私たちのEは、幼いころの存在の否定体験によって、拡大した自己防衛本能であり、不安です。

 

 どんなに家が貧しくても、親から罵詈雑言を浴びせらたり、叩かれたりしても、「自分は親にとって宝だ。」と確信している子供はD(欲求満足本能)、不満)です。

 

 一方、どんなに裕福な家で、どんなに親から気遣いを受けて育てられても、「お父さんは、自分よりも仕事を取るかもしれない。お母さんは世間体を取るかもしれない。他の兄弟のほうが大事かもしれない。長男だから大事にされているだけかもしれない。勉強ができるから可愛がってくれているのかもしれない。女の子あるいは男の子であったほうが良かったと思っているのではないか」などと感じる子供はEになります。

 

 もう一つのEが高くなる環境は、死の不安です。自分が病弱だったり、兄弟や両親が病気をしたり亡くなったということがあると、存在の不安が来て、Eが高くなります。

 

 それでも、思い当たるものがないという人もいます。これが、「隠されたE」です。

 

 「私は、お父さん、お母さんから十分愛されました。愛の欠乏など感じたことはありません。」という人がおられます。よく聞いていくと、大変「良い子」です。成績も良く、親に心配をかけるようなことをしたこともありません。兄弟の面倒もよく見ました。しかし、Eなのです。

 

 この人の場合は、それほど完璧に「良い子」にしていなければならないと感じるほど、Eだったということでしょう。 

 

 「お父さんお母さんに問題はなかったのですか?」と聞いてみても、「大変良い両親でした。」という返事です。お父さんお母さんの悪口を言う子は、「良い子」になれません。お父さんお母さんが悪いなどという感情は、無意識のうちに完璧に封印されます。

 

 「存在の否定体験=環境+自我の強さ」です。

 

 現代人の私たちは、皆が「自我」で一杯です。皆が「自我」で一杯なために、自分が「自我」で一杯だということに、なかなか気づけないことが少なくありません。

 

 Eが高いのに、存在の否定体験がはっきりしない方は、まず、自分の「自我」は、非常に強い「自我」なのではないかと、よくよく自分を見つめてください。

 

 「自我」が弱いと自分で思っておられる方でも、Eが強いために自己主張できないだけかもしれません。よくよく自分を見つめると、自分のことしか考えていないかもしれません。自分のことしか考えられない、それはまさに「自我」で一杯ということです。

 

 そして、「自我」がとても強く、その分、何気ないような親の言葉や行動にも、存在の否定体験も強烈に感じたということでしょう。

 

 心の中では、本当は寂しいのかもしれません。もっとわがままを言って甘えたいのかもしれません。しかし、それを出せば「良い子」ではいられなくなると思いこんでいるとしたら、随分悲しい子供です。

 

 さらに、そんな自分や親を無意識のうちに問題ないと思いこんでいるとしたら、なおさら寂しいものがあります。

 

 もし、映画でそのような子供の姿を見れば、きっと可哀想になって涙するでしょう。客観的に見れば、そうでしょうが、自分のこととなると、そういうことは一切ないと思っています。それが、「隠されたE」です。

 

 「隠されたE」は、この他にもいろいろとあります。それは、簡単には明らかにできません。自分自身が、それを見たくないのですから、何ども、繰り返して心の中を見つめなければなりません。心の奥底に閉じこめられた本音を聞かなくてはなりません。

 性格分析で、A(きびしい親)は、相手の欠点を見る能力です。B(優しい親)は、相手の長所を見る能力です。

 

 性格分析のグラフで、このAとBが接近している方の場合は、一歩深くグラフを読む必要があります。

 

 A(きびしい親)だけが強い人は、本人はそれほど苦しみません。相手が悪いと思えるのですから、責任は相手です。実際に口に出すかどうかは別として、とことん相手を攻撃しきれます。

 

 一方、B(やさしい親)だけが強い人も、それほど苦しみません。たとえだまされていても、だまされているということがわかりません。相手の長所しか見えないのですから、相手は素晴らしい人です。素晴らしい人のために、自分を犠牲にすることは、心の動きとしては自然です。

 

 問題は、両方とも高い人の場合です。この場合は非常に苦しい葛藤の状態に陥ります。

 

 A(きびしい親)が強いので腹が立ちます。許せません。しかし、B(やさしい親)も高いので、相手が弱くなると可哀相になります。

 

 腹が立ち、心の中で攻撃すればするほど、追いつめれば追いつめるほど、可哀相だという感情も強くなります。

 

 対人関係で、態度が決められません。常にA(きびしい親)とB(やさしい親)との間で揺れ動きます。憎しみといとおしさ、嫌悪と哀れみ、こうして愛憎の渦の中に巻き込まれていきます。際限のない渦です。

    A(きびしい親)は悪いもの、B(やさしい親)は良いものと思われていますが、そう簡単ではありません。

 

 日本は、村八分型の社会です。しかも、それは意識される以上に、無意識な感情となって、私たちの日常を支配しています。

 

 ですから、 日本では、A(きびしい親)もB(やさしい親)もやはり「村八分型集団無意識」のAとBであることから逃れることはできません。

 

 「村八分型集団無意識」のA(きびしい親)は、掟です。従わなければ村八分にするという攻撃、いじめです。飴とムチのムチに相当するものです。これはとことん私たちの骨の髄にまで、不安と恐怖の種として入っています。

 

 一方、B(やさしい親)は、素直に従う者については、身内であり同胞ですから優しくするという飴にあたるものです。どんなに反抗しても、悔い改めて、涙して「ごめんなさい」と言えば許されます。

 

 ですからB(やさしい親)といっても、本当のB(やさしい親)ではありません。自己防衛のためのB(やさしい親)です。私たちは、自己防衛のために、このB(やさしい親)を学び身につけました。

 

 「問題が起こっても、ことを荒立てないでおこう。波風を立てないでおこう。そうすることが大人であり、道徳的であり、良いことなんだ。がまんして優しくしていれば必ずうまく行くのだ」とよく言われます。自分でもいつも言っていることかもしれません。しかし、それはまさに「村八分型集団無意識」のB(やさしい親)です。

 

 このB(やさしい親)は、問題を複雑にします。不幸はこのB(やさしい親)から起こると言って良いことも少なくありません。A(きびしい親)だけなら問題は単純です。憎しみ、攻撃しかありませんので、葛藤は起こりませんが、B(やさしい親)がありますと、AとBとの葛藤が起こります。

 

 相手が弱ってくると、攻撃をすることが可哀相になります。憎んでいても不憫です。見捨てられません。抱きしめてやりたくなります。しかし、相手が元気になると、また従来の憎しみが戻ってきて許すことができません。憎い愛しい、愛しい憎いの繰り返しで、愛憎の渦になります。

 

 さらに、「村八分型集団無意識」では、B(やさしい親)は、価値あるものと教えられています。「A(きびしい親)を下げて、B(やさしい親)を高めることが人間として良いことだ。それができない人間は悪い人間だ」と教えられています。

 

 ですから、A(きびしい親)で相手を攻撃する自分は悪い人間という意識に悩まされなければなりません。自己否定です。

 

 愛憎と自己否定で、パニックに陥ってしまいます。まさにそれは、本人にとっては大変なパニックです。そして、その問題の原因は、相手にあると思っているでしょうが、しかし、それは自分自身の中にあるものです。自分の中にないものは絶対に見えません。憎しみも愛おしみも自分の中にあるものです。

 

 客観的に見れば、相手は何も感じていないかもしれません。ただただ自分勝手に生きているだけかもしれません。あるいは、こちらの性格を見抜いて巧みに利用し操っているだけかもしれません。

 

 大事なことは、性格分析で相手の性格を客観的に知ることと、B(やさしい親)は素晴らしいものですが、それは、本当のBであるかぎりにおいてという条件が付くことを理解することです。ここに本文を記入してください。

 

 (にせもの)というのは、一見、本物のように見えるが、よく見ると、違うというものや、にせものというもので、性格分析には、(にせもの)という現象が、多く見られます。と言うよりかは、(にせもの)の方が、多いかもしれません。

 

 この分析が必要になるのは、たとえばA(きびしい親)を見ると、「なるほどと思えるきびしさもあれば、どうもあげ足を取っているだけのようなきびしさ、自分のうっぷんを晴らしているだけのようなきびしさ」もあります。
 

 B(優しい親)についても、「本当に相手のことを考えてしている優しさもあれば、自分の損得でしているような優しさ、押しつけ、おせっかいのような優しさ」もあります。
 

 それから合理的といっても、たとえば泥棒さんは非合理的かと考えると、ある面では大変合理的です。夜中に人の居ない所へ入る、巧みに錠を開ける、そういう面では合理的だが、捕まったら元もこもないという面からは、全然合理的ではありません。
 

 このように、A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)にはなるほど、(ほんもの)と思えるものもあれば、(にせもの)も混じっています。このにせものを見抜いていくことにより、より本当の自分を知ろうというのが、(にせもの)分析なのです。
 

 性格分析のA(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)、D(自由気ままな子供)、E(人の評価を気にする子供)は、生きている充実感があるときには、(ほんもの)ですが、充実感がなくなると(にせもの)になります。
 

 本来のA(きびしい親)の特徴は、『社会のルールを守る。無いときは、ルールを創る』という機能です。社会だけではなく、『自然のルールも守る。教える』という機能もあります。
 

 人間は、集団生活でしか生きていけない動物です。動物という面では、人間は最も弱い存在です。外敵から身を守り、衣食住を確保するためには集団生活が必要です。つまり、社会ということですが、この社会の基本は、「一人一人が自由であり平等でありたい」ということでしょう。
 

 そのためには、ルールが必要です。自分だけは自由でありたい、というのでは本当の社会は成り立ちません。また、社会のルールを教えてあげないと子供や部下は、社会のなかで衝突や葛藤を引き起こし適応できなくなります。
 

 さらに、「池に落ちれば溺れる。火に手を突っ込めば火傷をする」といったことから、健康に関する知識まで、自然のルールも必要です。
 

 一方、生きている充実感が無くなると、A(きびしい親)は攻撃的になります。自分のしたいことを妨げるものを倒そうとする。からかう。脅す。あるいは、自分を守るために攻撃する。揚げ足を取る。警戒する。そういう面がでてきます。
 

 B(優しい親)の本来の特徴は、『見返りを期待しない優しさ』です。ルールだけでは、社会はうまくいきません。思いやりや譲り合う心が必要です。
 

 代償を期待しない優しさ、そんな物が世の中にあるかと言われますと、ほとんど無いのですが、やはり本当の特徴は? と考えますと見返りを期待しない優しさといういうことでしょう。「自由・平等と思いやり」、それらがそろって初めて、本当の社会が成立します。
 

 一方、充実感が失われると、B(優しい親)は自分の利益を得るための親切や、自分を守るための親切になります。押しつけの親切やお節介になるということです。
 

 A(合理的な部分)の本当の特徴は、『ハッと我に返る。原点に戻る』機能です。
 

 感情や理屈にとらわれているところから、ハッと我に返る。なにが原点を顧みる機能と言ってもいいですね。
 

 一方、充実感が失われると、自分を正当化するための自己弁護や自分を無理に納得させる自己説得のための理屈になります。
 

 D(自由気ままな子供)は、『欲求充足本能』です。食べたい、遊びたい、眠りたい、言いたいことを言い、したいことをしたいという欲望を満たす本能です。
 

 このままでは本能ですが、生きている充実感があるときは、前進性になります。一方、充実感を失うと、「欲しいものが手に入らない、満たされない」という気持ちが強くなり、「不満さん」になります。
 

 E(人の評価を気にする子供)は『自己防衛本能』です。自分を守ろうとする本能です。E(人の評価を気にする子供)をこのように理解すると非常に分かり易くなると思います。人の目や人の評価をなぜ気にするのか、という理由もよく理解ます。
 

 生きている充実感があるときは、自己反省能力、内面の世界、人の不安を思いやれる能力ですが、充実感を失いますと、「自分を守れなくなる、どうしょう」という気持ちが強くなり、「不安さん」になります。
 

 現実の社会の人間関係では、この不安と不満が(にせもの)現象の主役になります。
 

 まず第一に、自分が「不満」さんか、「不安さん」かを決めてください。嫌なことや困難なことが起きたときに、不安を感じる人は「不安さん」です。一方、不満を感じる人は「不満」さんです。さらに不安も不満も両方感じるという人は「不安と不満さん」です。この3つのタイプに分けられます。
 

 これの判別には、むしろ幼稚園や小学校など、小さいときのことを思い出していただくほうがよいでしょう。何十年も生きていますと、なかには、自分を作り替えている人もいます。正反対の性格になっている人もいます。だから、現在の自分がどう感じるかということよりも、幼い日の自分を思い出していただくほうが正確になります。

 

 この不安と不満が、自分の不安と不満を満足させるために、A、B、Cを、使うところから、にせもの現象が発生します。

 

 この(にせもの)を止めることなく、続けていくと、人間関係を壊して、自滅のシナリオへと進行していくことになります。本人は、自覚していないことが多いので、大変問題なのですが、早く、性格分析を学び、(にせもの)を止めなければ、人生を壊してしまうことも起こります。(にせもの)を見抜く能力は、大変重要なのです。

 性格分析で、A(きびしい親)は、相手の欠点を見る能力です。B(優しい親)は、相手の長所を見る能力です。

 

 性格分析のグラフで、このAとBが接近している方の場合は、一歩深くグラフを読む必要があります。

 

 A(きびしい親)だけが強い人は、本人はそれほど苦しみません。相手が悪いと思えるのですから、責任は相手です。実際に口に出すかどうかは別として、とことん相手を攻撃しきれます。

 

 一方、B(やさしい親)だけが強い人も、それほど苦しみません。たとえだまされていても、だまされているということがわかりません。相手の長所しか見えないのですから、相手は素晴らしい人です。素晴らしい人のために、自分を犠牲にすることは、心の動きとしては自然です。

 

 問題は、両方とも高い人の場合です。この場合は非常に苦しい葛藤の状態に陥ります。

 

 A(きびしい親)が強いので腹が立ちます。許せません。しかし、B(やさしい親)も高いので、相手が弱くなると可哀相になります。

 

 腹が立ち、心の中で攻撃すればするほど、追いつめれば追いつめるほど、可哀相だという感情も強くなります。

 

 対人関係で、態度が決められません。常にA(きびしい親)とB(やさしい親)との間で揺れ動きます。憎しみといとおしさ、嫌悪と哀れみ、こうして愛憎の渦の中に巻き込まれていきます。際限のない渦です。

 性格分析で、E(自己防衛本能、不安)が高い場合、簡単に原因が明らかになる人と、なかなかはっきりとしない人がいます。

 

 原因が分からない場合は、前に進むことはできません。Eが高い以上、時間をかけて、その原因を探る必要があります。

 

 豊かで安全な日本に住む私たちが、実際に餓死するとか、命を狙われるということはありませんので、動物としての自己防衛本能が強く動くことはまずありません。

 

 私たちのEは、幼いころの存在の否定体験によって、拡大した自己防衛本能であり、不安です。

 

 どんなに家が貧しくても、親から罵詈雑言を浴びせらたり、叩かれたりしても、「自分は親にとって宝だ。」と確信している子供はD(欲求満足本能)、不満)です。

 

 一方、どんなに裕福な家で、どんなに親から気遣いを受けて育てられても、「お父さんは、自分よりも仕事を取るかもしれない。お母さんは世間体を取るかもしれない。他の兄弟のほうが大事かもしれない。長男だから大事にされているだけかもしれない。勉強ができるから可愛がってくれているのかもしれない。女の子あるいは男の子であったほうが良かったと思っているのではないか」などと感じる子供はEになります。

 

 もう一つのEが高くなる環境は、死の不安です。自分が病弱だったり、兄弟や両親が病気をしたり亡くなったということがあると、存在の不安が来て、Eが高くなります。

 

 それでも、思い当たるものがないという人もいます。これが、「隠されたE」です。

 

 「私は、お父さん、お母さんから十分愛されました。愛の欠乏など感じたことはありません。」という人がおられます。よく聞いていくと、大変「良い子」です。成績も良く、親に心配をかけるようなことをしたこともありません。兄弟の面倒もよく見ました。しかし、Eなのです。

 

 この人の場合は、それほど完璧に「良い子」にしていなければならないと感じるほど、Eだったということでしょう。 

 

 「お父さんお母さんに問題はなかったのですか?」と聞いてみても、「大変良い両親でした。」という返事です。お父さんお母さんの悪口を言う子は、「良い子」になれません。お父さんお母さんが悪いなどという感情は、無意識のうちに完璧に封印されます。

 

 「存在の否定体験=環境+自我の強さ」です。

 

 現代人の私たちは、皆が「自我」で一杯です。皆が「自我」で一杯なために、自分が「自我」で一杯だということに、なかなか気づけないことが少なくありません。

 

 Eが高いのに、存在の否定体験がはっきりしない方は、まず、自分の「自我」は、非常に強い「自我」なのではないかと、よくよく自分を見つめてください。

 

 「自我」が弱いと自分で思っておられる方でも、Eが強いために自己主張できないだけかもしれません。よくよく自分を見つめると、自分のことしか考えていないかもしれません。自分のことしか考えられない、それはまさに「自我」で一杯ということです。

 

 そして、「自我」がとても強く、その分、何気ないような親の言葉や行動にも、存在の否定体験も強烈に感じたということでしょう。

 

 心の中では、本当は寂しいのかもしれません。もっとわがままを言って甘えたいのかもしれません。しかし、それを出せば「良い子」ではいられなくなると思いこんでいるとしたら、随分悲しい子供です。

 

 さらに、そんな自分や親を無意識のうちに問題ないと思いこんでいるとしたら、なおさら寂しいものがあります。

 

 もし、映画でそのような子供の姿を見れば、きっと可哀想になって涙するでしょう。客観的に見れば、そうでしょうが、自分のこととなると、そういうことは一切ないと思っています。それが、「隠されたE」です。

 

 「隠されたE」は、この他にもいろいろとあります。それは、簡単には明らかにできません。自分自身が、それを見たくないのですから、何ども、繰り返して心の中を見つめなければなりません。心の奥底に閉じこめられた本音を聞かなくてはなりません。

●親からのメッセイジーを点検する

 

  A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)の部分を見てみましょう。これらの部分は、生まれつきあるのではなくて、教育やいろいろな影響を受けて成長するものです。その影響は小さいときの方が強く残ります。

 

 一昔前は、たくさんの子供がいる家庭はも珍しくはありませんでした。親が、照れ隠しのつもりで、「この子は、要らない子だったのです」と人前でいうこともよくあることでした。大きくなって言われても、たいしたことではありませんが、幼いときには親以外に頼れる者はありません。たとえ冗談にせよ、そんなことをいわれれば深刻です。

 

 いかに生きるべきか、どうすべきかは、言葉で言われるだけではなく、親の毎日の行動や生き方から、子供は、多くを学んで大きくなっていきます。もちろん、兄弟、友達、先生、書物などさまざまなものから影響を受け、A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)を発達させていくのですが、やはり最も大きな影響は親からのものでしょう。これを親からのメッセージと呼びます。
自分がどのようなメッセージを受けているのかを点検することが、大変重要です。

 

 A(きびしい親)の高い人では、とのようなメッセージが入っているでしょうか。「人を安易に信じてはいけません。だまされますよ」、これはお父さんがいい人で、人を信じたために倒産した。そのような出来事があれば、このような言葉が家庭の中でお母さんの口からいつもでていた。それがメッセージとなった。そういうこともあるでしょう。

 

 「後ろ指を指されるようなことをしてはいけません」、学校の先生の家や旧家、あるいは伝統や権威を重んじる家で育てば、このようなメッセージが大人になっても、頭の中で生き続けることがあるかも知れません。

 

 「欲しいものがあれば、人を倒してでも手に入れなさい」、これは穏やかではありませんが、強い子に育てたいという思いのあまり、そのようなメッセージを与えてしまうこともあるでしょう。

 

 次は、B(優しい親)の高い人です。「一生懸命に人のために働きなさい。そうすれば、必ず報われますよ」、二宮尊徳症候群と呼んでいます。現在の若者には理解しがたいことかも知れませんが、団塊の世代以上の方では、よく聞いた言葉です。

 

 国が貧しい時代のときには、自分のことは後にして、社会のために働く人間を育てなければなりません。このように教育することが必要でもありました。だから、その当時は、小学校には二宮尊徳の銅像が建てられているのが普通の光景でした。

 

 あるいは、「強くたくましくありなさい。そうすれば尊敬されますよ」、スーパーマン症候群と呼んでいます。たくましい父、しっかりした母、現在でははやりませんが、一昔前ではこういう言葉も聞き慣れた言葉でした。

 

 さて、C(合理性)にはどのようなメッセージが入っているでしょうか。自己正当化です。自分が間違っているのに、いろいろと理屈をつけて、自分の非を認めようとしない。むしろ、自分の方が正しいのだと主張する。いわゆる屁理屈です。

 

 あるいは、自己説得というのもよくあります。自分の不幸や失敗をそのまま認めるのでは耐えられません。「人生長い目でみれば、プラスマイナスゼロだ」とか、こうなる「運命だったのだ」とか、理屈をつけて人を説得するのではなく、自分を説得する。納得しようとする。こういうこともよくあります。

 

 この他にも、たくさんのメッセージを受けているはずです。幼いときのことは、忘れています。だから、じっくり思い出してください。すぐに思い出せなくても、「メッセージを点検するのだ」、という気持ちでいれば意外なときふっと思い出すことがあります。また、思い出したくない思いでもあります。努めて忘れようとしているうちに、ほとんど意識に上って来なくなっているものもあります。

 

 嫌なことを思い出すだけで、それから自由になる方法がなければ、だれも思い出したくはないでしょう。しかし、心配は無用です。私の心身医学は、根本解決をめざしています。必ず、自由自在になれる解決法を学んでいただきますので、安心して、幼い日の再発見をしてください。

 

 

 ●「不安」と「不満」を、どのメッセージで解決しようとしているかで性格ができあがる

 

 自分が「不安さん」であるのか、「不満さん」であるのかが分かり、どのようなメッセージを幼い日に受けているかが点検できれば、自分の性格を形成している要素が理解できます。

「バラバラさん」

 

「不安さん」で、その解決に攻撃、警戒のメッセージを受けていれば、「バラバラさん」になります。

 

 

 

 

 

 

「ぼろぞうきんさん」

 

「不安さん」で、「一生懸命に働くこと。親切にすること」というメッセージを受けていれば、「ボロぞうきんさん」になります。

 

 

 

 

 

 

「クールさん」

 

「不安さん」で、自己合理化や自己説得のメッセージであれば、「クールさん」になります。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「不安さん」で、攻撃のメッセージであれば、「あんたが悪いさん」になります。「不満さん」でも、攻撃のメッセージがあれば、「あんたが悪いさん」になります。

 

 

 

 

 

 

Dが高くても、昭和一桁代生まれのように、百戦錬磨を経験できた世代は、自分を生きることと、「働くこと、親切にすること」というメッセージがうまく噛み合って、「行け行けさん」になりますが、その後の世代では、百戦錬磨は経験できず、社会適応能力を身につけられませんので、「不満さん」になることが多くなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

「不満さん」でも、「不安さん」でも、「我がままであってはならない。軟弱であってはならない。」というメッセージなら、「伝統さん」になります。

 

 

 

 

 

 

 

子供のままで、大人になれない人の場合は、「不安さん」であり、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「不満」さんです。

 

 

 

 

 

 


 

不安と不満の両方がある場合は、「子供ちゃん」です。

 

 

 

 

 

 

 

 それらを頭において、10のタイプを見てください。より理解しやすくなったと思います。ただ、注意点があります。あまり真面目にやらないで欲しいということです。心の問題を扱う時は真面目にやり過ぎますと、かえってよくありません。「あなたは、これこれですよ」と、きめつけるのは最悪です。「こういうこともあるかもしれない」程度にしておきましょう。


  若い世代にも、少ないとはいえ「行け行けさん」がいます。「仮面さん」ではないのですが、グラフの形と本当の姿が違うという意味では、「仮面さん」に似ていますので、ここでいっしょに見ておきましょう。この場合は、「不満さん」になることが多いでしょう。「行け行けさん」がうまくいくためには、D(自由気ままな子供)が社会の中で現実の形にならなければなりません。

  つまり、A(きびしい親)とB(優しい親)が十分発達しており、社会との間で摩擦にならず、建設的な形になるということと、それを合理的に遂行するために、C(合理性)も発達していなければなりません。

  「行け行けさん」の代表選手は、敗戦を体験した昭和一桁世代ですが、この世代は、敗戦後何もない状態から、ありとあらゆる経験ができました。失敗は恐くありません。国自体が失敗したのですから、それ以下にはなりません。失敗を繰り返しながら、A(きびしい親)とB(優しい親)とC(合理性)を磨いてきました。

 百戦錬磨です。それがあって初めて、D(自由気ままな子供)がうまく社会の中で開花したのです。エンジンを吹かすだけではなく、車の構造も交通規則も習得し、さまざまな状況の中で運転の練習もできた。これが「行け行けさん」です。

  しかし、豊かな時代に生まれた若者には、そのような体験がありません。ファミコンと偏差値と鉄筋コンクリートの街です。A(きびしい親)、B(優しい親)、C(合理性)を勉強したり、練習、錬磨する環境にはありません。

  また、豊かな時代では、失敗はできません。失敗すれば取り残されてしまいます。しかも、国の規模も桁違いに大きく、社会の構造も情報も膨大で複雑になっています。下手に動けば、失敗は目に見えています。

  おとなしくしておればよいのですが、D(自由気ままな子供)が許しません。自分を主張しなければ、自分がなくなったように感じます。しかし、社会適応なしで、自分を主張すれば、「わがままだ。未熟だ」といって、相手にしてもらえません。ますます「不満さん」になり、C(合理性)がなくなり、悪循環に落ちていく、ということになりかねません。現代の日本は、このタイプの若者にとっては、親たちの時代とは違って、決して生きやすい時代ではありません。ストレスが溜まることでしょう。

  性格分析でのEの本体は、自己防衛本能ですから、あって当然のものです。ただ、それが強くなると、「不安さん」になり、人の評価ばかり気にするようになります。人の目ばかり気になり、少しのことでも不安になり、生きにくくなります。

では、なぜEが強くなるのでしょうか。それは、幼いときに不安体験をしたからです。大きくなってからの体験は、自分が大きいですから、あまりこたえません。やはり、少しのことでも生命の危険が及ぶ幼児期の体験です。

しかも、それは存在の否定体験です。単に怖いとか、恐ろしいということではなくて、「私は、両親にとって、不必要な存在ではないのか? じゃまな存在ではないのか?」という体験です。

大人にとって大したことではなくても、存在の否定体験などというたいそうな問題ではなくても、ごく常識的な言葉や行動であっても、子供にとっては、自分の存在を否定されていると感じることがあります。

上昇志向の強い家庭は、子供にとっては「存在の否定」です。勉強ができ、社会的に立派とならない限り、親から存在を認めてもらえないからです。「世間体」を大事にする家も、子供にとっては「存在の否定」です。お父さんやお母さんは、自分よりも「世間体」を取るからです。

男の子がほしかった。女の子の方が良かったということも、そうです。性別は完全な存在の否定です。仕事優先の親もそうです。私と遊ぶよりも仕事を取るのですから。病弱な姉を大事にする親も、そうです。私よりもお姉さんが大事なのですから。

物は何でも与えてくれるが、叱ることのない親も、そうです。叱ることすらないほど、存在を無視されているのですから。自由な家庭というのは、存在感の希薄な家庭ということでもあります。

大きくなれば、愛情がないのではなく、いろいろな事情があってそうだったのだと分かります。しかし、大きくなって理解できたとしても、それは意味がありません。幼いときには、幼いときに感じたことがすべてです。その時に感じた不安が、根底に根付き、その後の人生の出来事の度に大きく育ってきたのですから。

さらに、時代の変化から来る問題があります。貧しい時代では、食べることで精一杯でした。餓死する危険がいつもありました。親は精一杯がんばって、子供に食べ物を与えました。それが、親の愛情表現でした。子供も空腹ですので、ご飯を与えてくれる親は、愛情あふれる親と感じられました。

貧しい時代では、お父さんが仕事で家にいなくても、ご飯を食べさせてくれるためにがんばって働いてくれているということが分かります。お母さんが、世間体ばかり気にしても、自分や家族を守るために気苦労してくれているということが理解できます。

貧しい時代は、親の愛が確認しやすい時代です。ご飯を食べさせてくれる、それで親の愛を確認できました。しかし、豊かな時代になれば、ご飯は当たり前です。物によっては、愛の確認はできません。外で仕事ばかりしている親は、自分よりも仕事が大事だと映ります。世間体ばかり気にしている親も、自分よりも世間体のほうが大事だと感じます。

しかも、現在の日本の親は、貧しい時代に生きた親です。もっと若い世代でも、物を与えるのが愛情表現だった親に育てられていますので、愛情表現は物です。しかし、子供は物には飽きています。物では、愛情表現とは感じられません。ここに、愛情欠乏症が起こります。急速に高度成長をし、「物の時代」から一挙に、「心の時代」に到達した日本の特殊事情です。

もう一つの存在の否定体験は、死です。私たちの死生観は、「死んだら灰になっておしまい」ですから、死は、完全な存在の否定です。幼いころに、病弱だったとか、家族の人や親しい人が死んだという体験は、強い存在の否定体験になります。親の愛の確認ができないということと、死の不安が、存在の否定体験を形成するのです。

ただ、「存在の否定体験=環境+自我の強さ」です。自我が非常に強い方は、親の愛の確認ができないことや死の不安という環境による存在の否定体験が弱いものであっても、自我が強ければ、強く存在の否定体験と感じます。

存在の否定体験を考える場合は、常に、環境と自我の強さという両面から見ていかなくてはなりません。環境の面では、存在の否定体験に当たるものはたいして強くなさそうなのに、Eが非常に高い方は、自我の強さという面から見ていくと、より正確に理解できるでしょう。

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