A(きびしい親)は悪いもの、B(やさしい親)は良いものと思われていますが、そう簡単ではありません。

 

 日本は、村八分型の社会です。しかも、それは意識される以上に、無意識な感情となって、私たちの日常を支配しています。

 

 ですから、 日本では、A(きびしい親)もB(やさしい親)もやはり「村八分型集団無意識」のAとBであることから逃れることはできません。

 

 「村八分型集団無意識」のA(きびしい親)は、掟です。従わなければ村八分にするという攻撃、いじめです。飴とムチのムチに相当するものです。これはとことん私たちの骨の髄にまで、不安と恐怖の種として入っています。

 

 一方、B(やさしい親)は、素直に従う者については、身内であり同胞ですから優しくするという飴にあたるものです。どんなに反抗しても、悔い改めて、涙して「ごめんなさい」と言えば許されます。

 

 ですからB(やさしい親)といっても、本当のB(やさしい親)ではありません。自己防衛のためのB(やさしい親)です。私たちは、自己防衛のために、このB(やさしい親)を学び身につけました。

 

 「問題が起こっても、ことを荒立てないでおこう。波風を立てないでおこう。そうすることが大人であり、道徳的であり、良いことなんだ。がまんして優しくしていれば必ずうまく行くのだ」とよく言われます。自分でもいつも言っていることかもしれません。しかし、それはまさに「村八分型集団無意識」のB(やさしい親)です。

 

 このB(やさしい親)は、問題を複雑にします。不幸はこのB(やさしい親)から起こると言って良いことも少なくありません。A(きびしい親)だけなら問題は単純です。憎しみ、攻撃しかありませんので、葛藤は起こりませんが、B(やさしい親)がありますと、AとBとの葛藤が起こります。

 

 相手が弱ってくると、攻撃をすることが可哀相になります。憎んでいても不憫です。見捨てられません。抱きしめてやりたくなります。しかし、相手が元気になると、また従来の憎しみが戻ってきて許すことができません。憎い愛しい、愛しい憎いの繰り返しで、愛憎の渦になります。

 

 さらに、「村八分型集団無意識」では、B(やさしい親)は、価値あるものと教えられています。「A(きびしい親)を下げて、B(やさしい親)を高めることが人間として良いことだ。それができない人間は悪い人間だ」と教えられています。

 

 ですから、A(きびしい親)で相手を攻撃する自分は悪い人間という意識に悩まされなければなりません。自己否定です。

 

 愛憎と自己否定で、パニックに陥ってしまいます。まさにそれは、本人にとっては大変なパニックです。そして、その問題の原因は、相手にあると思っているでしょうが、しかし、それは自分自身の中にあるものです。自分の中にないものは絶対に見えません。憎しみも愛おしみも自分の中にあるものです。

 

 客観的に見れば、相手は何も感じていないかもしれません。ただただ自分勝手に生きているだけかもしれません。あるいは、こちらの性格を見抜いて巧みに利用し操っているだけかもしれません。

 

 大事なことは、性格分析で相手の性格を客観的に知ることと、B(やさしい親)は素晴らしいものですが、それは、本当のBであるかぎりにおいてという条件が付くことを理解することです。ここに本文を記入してください。


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