性格分析でのEの本体は、自己防衛本能ですから、あって当然のものです。ただ、それが強くなると、「不安さん」になり、人の評価ばかり気にするようになります。人の目ばかり気になり、少しのことでも不安になり、生きにくくなります。

では、なぜEが強くなるのでしょうか。それは、幼いときに不安体験をしたからです。大きくなってからの体験は、自分が大きいですから、あまりこたえません。やはり、少しのことでも生命の危険が及ぶ幼児期の体験です。

しかも、それは存在の否定体験です。単に怖いとか、恐ろしいということではなくて、「私は、両親にとって、不必要な存在ではないのか? じゃまな存在ではないのか?」という体験です。

大人にとって大したことではなくても、存在の否定体験などというたいそうな問題ではなくても、ごく常識的な言葉や行動であっても、子供にとっては、自分の存在を否定されていると感じることがあります。

上昇志向の強い家庭は、子供にとっては「存在の否定」です。勉強ができ、社会的に立派とならない限り、親から存在を認めてもらえないからです。「世間体」を大事にする家も、子供にとっては「存在の否定」です。お父さんやお母さんは、自分よりも「世間体」を取るからです。

男の子がほしかった。女の子の方が良かったということも、そうです。性別は完全な存在の否定です。仕事優先の親もそうです。私と遊ぶよりも仕事を取るのですから。病弱な姉を大事にする親も、そうです。私よりもお姉さんが大事なのですから。

物は何でも与えてくれるが、叱ることのない親も、そうです。叱ることすらないほど、存在を無視されているのですから。自由な家庭というのは、存在感の希薄な家庭ということでもあります。

大きくなれば、愛情がないのではなく、いろいろな事情があってそうだったのだと分かります。しかし、大きくなって理解できたとしても、それは意味がありません。幼いときには、幼いときに感じたことがすべてです。その時に感じた不安が、根底に根付き、その後の人生の出来事の度に大きく育ってきたのですから。

さらに、時代の変化から来る問題があります。貧しい時代では、食べることで精一杯でした。餓死する危険がいつもありました。親は精一杯がんばって、子供に食べ物を与えました。それが、親の愛情表現でした。子供も空腹ですので、ご飯を与えてくれる親は、愛情あふれる親と感じられました。

貧しい時代では、お父さんが仕事で家にいなくても、ご飯を食べさせてくれるためにがんばって働いてくれているということが分かります。お母さんが、世間体ばかり気にしても、自分や家族を守るために気苦労してくれているということが理解できます。

貧しい時代は、親の愛が確認しやすい時代です。ご飯を食べさせてくれる、それで親の愛を確認できました。しかし、豊かな時代になれば、ご飯は当たり前です。物によっては、愛の確認はできません。外で仕事ばかりしている親は、自分よりも仕事が大事だと映ります。世間体ばかり気にしている親も、自分よりも世間体のほうが大事だと感じます。

しかも、現在の日本の親は、貧しい時代に生きた親です。もっと若い世代でも、物を与えるのが愛情表現だった親に育てられていますので、愛情表現は物です。しかし、子供は物には飽きています。物では、愛情表現とは感じられません。ここに、愛情欠乏症が起こります。急速に高度成長をし、「物の時代」から一挙に、「心の時代」に到達した日本の特殊事情です。

もう一つの存在の否定体験は、死です。私たちの死生観は、「死んだら灰になっておしまい」ですから、死は、完全な存在の否定です。幼いころに、病弱だったとか、家族の人や親しい人が死んだという体験は、強い存在の否定体験になります。親の愛の確認ができないということと、死の不安が、存在の否定体験を形成するのです。

ただ、「存在の否定体験=環境+自我の強さ」です。自我が非常に強い方は、親の愛の確認ができないことや死の不安という環境による存在の否定体験が弱いものであっても、自我が強ければ、強く存在の否定体験と感じます。

存在の否定体験を考える場合は、常に、環境と自我の強さという両面から見ていかなくてはなりません。環境の面では、存在の否定体験に当たるものはたいして強くなさそうなのに、Eが非常に高い方は、自我の強さという面から見ていくと、より正確に理解できるでしょう。


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